そして、それが実は、古くから太極拳の発祥の地「武当山」で行われていた最適な方法なのです。
1912年に清朝が滅びて、北京の北平体育研究社にて、楊家の楊澄甫が武術要素を取り除いた楊家の85式太極拳を発表し大流行しました。
一時的にブームになりましたが、その後、多くの人が身体をこわすこととなり、またその難しさから長続きせず、一部のマニアの人だけに行われるようになりました。
その後の中国は、第二次世界大戦終戦後、共産党により中華人民共和国が設立され、1950年には、毛沢東が新民主主義的国民体育と武術工作会議にて、民衆蜂起の元となる武術を無力化する工作を開始しました。
それにより、1956年に、保健・体育活動の教材として制定した太極拳24式や88式を発表し、中国の人たちにラジオ体操のように親しまれることになるばかりか、世界中に新生中国の象徴として広まりました。
日本を含み、この世界中に広まったところで、伝統性や神秘性、特別な付加価値を付けられ広まったため、多くの人が難しさや、身体を壊して挫折し、中国以外の各国でも一時的な大ブームは後に下火となっていきました。
本来はとても簡単なところから始めることができる太極拳が、残念なことに中国以外では、難しくて身体をこわすことが原因となって、挫折する人が多くでました。
それは、現在でも同じであり、本来の太極拳を振興することで、太極拳を愛好する人の裾野が広まり、免疫や抵抗力などを含む、人間の潜在的な生命力が活性され、ウィルスなどの病原菌を含む生命や健康などのあらゆる脅威に対して、多くの人に、びくともしない心身を取り戻して頂きたいと願っています。
13世紀の半ば、中国禅宗の発祥の地、また、少林拳の発祥の地で有名な、崇山少林寺で三十二勢長拳などの拳法を修行し、文武両道で主席となった張三丰が、人間の心身のみを鍛えようとする少林寺に見切りを付け、道教の教えを受け武当山に道教の一派を開いたと記されています。
張三丰は、三十二勢長拳に、太極理論における宇宙の法則と、タオに流れる無為自然を内部に回復した拳法に発展させ、これらを内家拳法と呼びました。すでに、陰陽理論と太極理論は道教内にあり、この理論に則っているため太極拳法とも呼んでいました。
武当山ではこの拳法が盛んになり、また、内丹や神仙が拳法と融合した長学医練拳法が有名になり、多くのものが原因不明の痛みや病気を治すために訪れました。
発足時から、治病と心身強化の道を歩む道教は、医武同源を基本に、拳法を習う若者を集め、武当山を訪れる人々の健康のための理論を徹底して教え込みました。
この時から、初めて太極拳を覚えるものや、治病や養生のために武当山に訪れる人に太極拳をすぐに覚えてもらうための「雕架式」が制定されていました。
世界最古の医学シッダ医学から、老子、そして張三丰に受け継がれた養生術は大成して理論化しており、治病や予防医学に大きな効果を生み、武当山には数百の寺院ができるほど発展しました。
道士の太極拳、内丹仙術や養生、導引は広く世間に知れ渡り、多くのものが武当山に訪れ、痛みや病の呪縛から解き放たれていました。
空間・時間を超越し、天地万象の根源となるような武を「玄武」や「真武」といい、それを神格したものが「玄天上帝」と呼ばれ、武当山の医武同源は世の頂点に「玄天上帝」の聖地として響き渡っていました。
その最高峰が張三丰の流派であることを、明の成祖、「永楽帝(1403年~1424年)」が知り、神仙道士の張三丰が200才近くにもなろうとしても、それほどの道士なら仙人となりまだ生きているのではないかと思い込み、張三丰を捜し出す命令が何度もだされた記録が残っています。
明代に玄天上帝は王室の守護神となり、そして武当山は朝廷公認の参拝地となり、日本のお伊勢参りのように、登ることが勧められました。
張三丰は、この時代に痛みや病を消し去る「玄天上帝」の化身としてあがめられました。
この張三丰の太極拳を、現在の制定太極拳に対応させ、古来からの方法の通り「雕架式」から医武同源を種にする美しい太極拳に彫り込んでいく「太極拳」を振興していきます。
元々は同じ文化であったにも拘わらず、日本人と中国を分けるのは、国境という観念のもとに、同じ文化をお互いに独自の進化や改編を行ったに過ぎず、太極拳は、その根本的な性質を元に、より素朴で普遍的な人間の潜在能力を、その民族が持つ身体の特性に応じて発揮させていくものです。
従って、根源的には同民族である中国人と日本人の身体特性は同じであり、その潜在能力を発揮する性能が、太極拳に備わっているわけですから、日本人にとって太極拳は大変親しみやすい、身体特性に合致した運動であるといえます。
1990年代の香港では、多くの人が公園で太極拳を楽しんでいました。その人々の特徴は、誰もが、一切難しい規則や要訣、決まった動きに一切拘らないで、まるで日本のラジオ体操のような感覚で、中には子ども達も参加して楽しんでいました。
日本では、1979年にサントリーオールドのCMで太極拳が紹介され、太極拳が大ブームとなりました。
その当時、関西でも太極拳教室が多く開設され、1983年に大阪の広告企画会社が、その太極拳教室の生徒の方たち、年齢34才から82才までの1000人に対して追跡アンケートを行いました。
1983年の調査では、簡単なプロフィールと連絡先のみで、その2年後に、健康効果や上達度などを調査するのが目的でした。
ところが、1985年調査では、その教室に残っている人がたった54人で、教室も10分の1ほどになっていました。
登録住所に郵送によるアンケートでは、様々な項目がありましたが、太極拳教室を辞めた人に対して、その理由を複数回答を可能にして、回答を得ました。
その結果は下記のとおりです。
1位 難しくて挫折 685人
2位 面白くない 354人
3位 健康効果が無い 310人
4位 太極拳で身体をこわした 255人
5位 自己都合 254人
6位 自身の病気・怪我 85人
という結果でした。
中国では、日本のラジオ体操のように、全く同じように、ただ誰もが楽しんでいる体操なのです。
そして、ここから、本格的に太極拳を深めたい人が出てきて、本来の太極拳を求めていけばいいのです。
日本に制定太極拳が伝わったとき、ただ中国の人たちのように朝のだれもが参加するラジオ体操のように伝わったのではなく、誰かが、専門的にまた伝統的であり、秘術や秘訣などの付加価値を独占して造り上げることで、太極拳を特別なものとしてしまったようです。
しかしながら、中国共産党が造り上げた傑作の、単なる簡単な体操であるにも拘わらず、中には、伝統武術であると様々な武術要素を加えて、武術の基礎ができていない人たちに、あたりまえに難しい動きを求めました。
その上、規則や要訣などを安全のために不可するという矛盾を問題にもしないため、多くの人が身体に支障を生み、キャリア修得のようにこれらの規則や要訣を備えた太極拳の技術を習得することを目標として、その達成感を目指す人たちを主として、太極拳が愛好されています。
本来は、この太極拳の動きは、中国人、日本人の身体特性に応じた動きですから、何も制圧せずおおらかに動いていればいいのです。そして、そうでないと実は次の「大架式」の段階に進めないのです。
それが、中国の人たちの朝の太極拳です。香港の人たちもそうでした。
そして、その動きを行っている中で、本来の潜在能力にある勢いの心地よさに芽生えたら、その勢いを思いだすことができる、本来の太極拳に進めばいいのです。
簡単な動きで、自らの潜在能力にある本来の勢いを思いだして、この心地よさと爽快感、生命感などを感じたとき、自然と美しくて健やかなの動きが身についていくわけです。
「規則や要訣、動き方や姿勢など一切気にせず、本来の潜在能力が生み出す勢いを思いだす」それが、古来からの太極拳の中心的な目的なのです。
初めての方も、すでに太極拳を愛好している人も、雕架式でそれを思い出して、本来の勢いで動く太極拳を身につけて、健康で元気な生涯に役立てて頂ければと思います。